日本
トーマス・シェリング
経済学研究会







【トーマス・シェリングの経済学の特色(倫理に向き合う)】

 トーマス・シェリングの経済学の特色は、何よりもまず、その実用性にあります。

 もう随分前の事ですが、私が理解に苦しんだ問題に「安全対策」があります。以前、私は石油関係の仕事に従事していたのですが、石油精製に携わっている人達から、製油所の安全対策に関係する話しを聞く機会が度々ありました。
 現代の製油所では、危険が予期される作業などについては、一定の安全対策が取られています。特に自動化は爆発や火災の予想される部分から人間を物理的に遠ざける事で確かな安全性を確保出来ます。
 しかしながら、製油所は広大で、工程の性質から高低差のある施設が多くあります。当然、広大な製油所全体での作業全てを自動化する事は出来ず、特別な危険が予想される部分以外は人間に頼らざるを得ません。結果的に転落事故などが主な安全対策の対象となりますが、その広大さ故に完全な対策には莫大な費用を要し、現実的には困難である面があります。
 こういった問題にいかに向き合うか、というのは非常に困難な問題であると私には思えました。

 例えば、経済学的な利益追求の考えから、こういう説明は可能でしょうか。
「安全対策に要する費用よりも、被害者や遺族に支払う補償の方が安いのならば、その安全対策は不要である」と。
 つまり、「年間3件の死亡事故があり、それぞれ3億円ずつの補償を行っているとして、この事故の内の2件が年間5億円の投資で防げるならば、実行すべきである」という事は出来ますし、倫理的に考えても、これは妥当な結論だと言えます。
 しかし、例えばその安全対策の費用がもう少し高かったら、こういう説明に皆さんは納得し、合意する事が出来るでしょうか。
「もし、ある安全対策に年間7億円必要で、これによって年間2件の死亡事故が発生し、それぞれ3億円ずつ補償を行っている。であるならば、2件の死亡事故は容認して安全対策を取らない方が懸命であり、他の1件と合わせて3名程が事故死するのが妥当である」と、少なくとも倫理的な面を含めて考えれば、これは説明として容認し難いものです。

 確かに、単純化した想定では、安全対策にしろ事故の補償にしろ出費が少なくなる方を取るのが合理的という事になるでしょう。

 しかしながら、人間は機械ではなく感情のある存在であるので、どの様に考えても、これに皆が納得するとは思えないし、おそらく、ある企業がこの様な考え方で事業を進めていると分かれば、従業員は仕事の意欲を失い、顧客は企業イメージを悪化させ、取引先も将来的な協力に不安を抱えるかも知れません。これは、それぞれ、生産性の低下、売上の減少、取引先の待遇の悪化などに繋がります。しかし、古い経済学は、そういった要素まで計算に入れては定式化したり、均衡点を算出したり出来ないので「考慮しないものとする」という事になります。したがって、単純な目先の金額を比較するだけのものは、とても現実的とはいえませんし、期待した結果通りには行かないでしょう。また、古い経済学はこの問題に回答を出す事が出来ません。

 工場にしろ何にしろ経済活動に伴う事故は痛ましい事で、考える事すら苦痛かも知れません。しかし、倫理観の使い方を間違えると、2つの極論に陥るかも知れません。1つは「事故が起きるくらいならそんな産業は止めてしまえ」という考え。もう1つは、「いかに採算が悪化してでも考えられる限り最大の安全対策をしなければならない」というものです。
 しかし、この問題は、何某かの産業を放棄する事では解決しません。何故ならば、その産業に従事している人達は報酬を得る必要があって従事している訳で、穿った見方をすれば、死亡事故があると分かっている産業に、それぞれの必要から従事しているのですから、1つの産業が廃止されても、他の産業に従事せざるを得ず、例えば一国規模で1つの産業を廃止したならば、国家経済の配分が効率的でなくなり、他の産業もより劣悪な労働環境になりかねませんし、1つの産業が廃止され、従事者達が漁業や運送業に転職したとして、それによって過当競争となってしまったら、彼らは単価を下げて働く事になり、必要な収入を確保する為に、海が荒れた日でも出漁したり、過積載や長時間運転をせざるを得ない状況になるかもしれず、返って危険が増す可能性すらあるからです。
 また、採算を無視して安全対策に予算を投下すのは、倫理的に見て良好には見えますが、現実的には単独の企業などが、これを行い競争に破れて廃業する事になれば、やはり、より劣悪な労働環境の企業が拡張する事によってその事業を引き継ぐかもしれず、結局、元の木阿弥となってしまいます。なる程、古い経済学の尺度で見れば、「従業員の意欲」や「企業イメージ」、「取引先の期待」などの寄与の度合いが不明でも結局は淘汰によって最適な企業が残る、という事もできるのですが、これは私達にとってあまり役に立ちません。全く試行錯誤でやってみて、後になってから上手く行けば「合理的であったのだ」とか、廃業に至って「合理的ではなかったのだ」など結論が出せた所で、到底「役に立つ」ものではないからです。

 結局、私達は適切な安全対策の予算を導く方法を求めない訳には行きません。もちろん、競争で不利になる様な些か大きめの安全対策予算も合理的である場合があります。例えば、公的機関の補助対象となったり、より根本的に法規的に一定の安全対策を義務付けるなどの方法で、競争における不利益は解消される事があります。しかしながら、この場合、尚更、「適切な安全対策の予算を導く方法」は確率される必用がありますし、特に政策としては、「何某かの機器の設置義務付け」などの形態で実施される事が多い様に思われますが、これらも本来、政治的には苦渋の決断を迫られる問題である筈です。つまり、「ただ、一定の事柄に対する安全対策をより厳しく義務付けたり、補助金を出して何らかの事柄に対する予算を増額する」のが正解とは限りません。ひょっとしたら、現行の規制を緩和したり、補助金を打ち切ってでもすべき他の事柄があるのかも知れません。(工場内での事故は、省力化によって相当減っていると見られるが、交通事故は依然として減少しないなど、重点的に対策すべき事柄は時代の流れで変わる。)また、経済学はこういった課題に解決の糸口を提供する事でより実用性のあるものになります。
 加えて、実際にシートベルトやヘルメット、火災感知器、消火設備、盗難対策の金庫や錠前の製造業、警備業などの様な「安全」に関係する産業は沢山あります。こういった産業も経験的に割り切るのではなく、一定の経済学的説明を与える必用があるでしょう。またそれは、安全に関係する産業の根拠を論理的に説明する事に繋がり、国家規模の経済政策の一翼を担う産業と位置づける事が出来る様になるかも知れません。

そういう困難な課題に挑戦し、米国で一定の成果を挙げたのがトーマス・シェリングの経済学です。



2019.5.10 掲載 中村寿徳(研究会呼掛人)
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